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大久保 商店街のあれこれ [日記]

大久保・百人町には、色々な商店さんがある。

この町には、大企業は無く、多くが「●●商店」である。

つまり、個人事業主や、家族経営レベルのお店なのである。



私は大企業のお店より、こういった個人商店の方が好きだ。

やはり、性に合っている。

大企業で、チェーン店化されたお店は、それはそれで便利だし、
良いと思うが、大久保の街には、あまり合わないような気がする。

大久保とは、昔から、そのような街だ。



さて、大久保のメインストリートの一つ、大久保通りには、
沢山のお店が建ち並ぶ、商店街である。

その昔、この大久保通り商店街の上には、屋根があって、
アーケード状になっていた。

そんな事を覚えている人も、それほど多くないのでは無いだろうか?



そのアーケードも、いつの間にか取っ払われた。

今考えれば、消防法の影響では無いだろうか?

まあ、あの状態では、火事が発生した時に、、
消防車が入ってくるのに苦労しただろう。



今は、商店街から、空が見える。

そんな風景が、見慣れた風景となった。

私とて、最早この風景になれてしまっている。

思い返せば、遠い昔の話である。



当時の写真が、どこかに残っていないのか?

家中を探し回ったが、残念なことに一枚も発見できなかった。

最早、あのアーケードの事は、過去のものへと追いやられてしまうのである。



大久保には、多くの思い出がある。

そして、大久保では、多くの思い出が消えていった。

商店街のアーケードも、その一つである。



これ以降も、大久保は様変わりをしていくことであろう。

しかし、今をとどめるものも、少しは残して頂きたいものである。
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新宿区大久保の風景 [日記]

新大久保駅 乗客転落事故





平成13年1月26日。

テレビのニュースで、ある電車事故が報道された。

新大久保駅乗客転落事故である。



泥酔した日本人男性が、山手線の線路に転落。

その男性を助けようとして、日本人のカメラマンと
韓国人留学生の男性が、線路に飛び降りた。

残念なことに、そのすぐ後、山手線が走り込んできて、
3人がひかれて、お亡くなりになったという事故である。



当時は、かなりのインパクトのある事故であったため、
まだ、ご記憶の方もいらっしゃるだろう。

今現在も、新大久保駅の階段には、カメラマン男性と
韓国人留学生のプレートが飾られている。

私は、新大久保駅を利用する機会は多くないが、
それでも、毎回プレートの前を通過する度に、
この残念な事故を思い出してしまう。



そもそも、事件の発端は、
泥酔した日本人が、線路に落ちてしまったことが原因である。

調査の結果、その男性は、新大久保駅の売店で、
お酒を購入し、呑んでいたことが判明。

それ以降、山手線の売店から、
アルコール飲料は消えた。



私は、以前から、日本人の
「たばこ・アルコール」の感覚の甘さに疑問を持っている。

街を歩きながら、たばこを吸っている人間。

チューハイを呑みながら、歩いている人間。

こんな輩を見かけたことは、無いだろうか?



「たばこ・アルコール」は、立派なドラッグである。

そんなドラッグを、街を歩きながら、
堂々と摂取しているのである。

もしこれが、アメリカ合衆国なら、
即刻、現行犯逮捕である。

それだけ、厳格な意識を持って、
「たばこ・アルコール」は、扱われているのである。



私は、「たばこ・アルコール」は、
日本でも、今後は、もっと厳格に取り扱われるべきであると思う。

この新大久保駅乗客転落事故での、山手線売店の対策も
その一環であると認識している。

我々日本人も、もっと意識を持つべきでは無いだろうか?

新宿区大久保に住む 第八章 [日記]

大久保を歩いていると・・・





大久保には、コリアンタウンがある。

完全に観光地化した、場所である。

大阪の鶴橋と並び、日本最大級のコリアンタウンである。



実は、私はコリアンタウンに訪れる人たちについて、
驚くことがある。

それは、意外と韓国からの旅行者が、多いという事実である。



私の中では、観光地化したコリアンタウンと言えば、
ターゲットは日本人だと思っていた。

ところが、街ゆく人たちを見ていると、
明らかに、韓国から来た旅行者も多い。

そんな人たちから、たまに喋りかけられたりもする。

先日もこんな事があった。



私が、大久保通りを歩いていたときの話である。

大久保通りとは、大久保一丁目と二丁目を分ける道路であり、
大久保では、メインストリートである。

前から、スーツケースと観光案内を持った、
一目で旅行者と分かる韓国人カップルが歩いてきた。

二人で、なにやら韓国語で話しながら、
どこかの場所を、探しているようである。

そのカップルの男性と、私の目が合ってしまった。

その瞬間、その男性は、満面の笑顔を浮かべて、
「アニョハセヨ~~~!」
と、しゃべりかけてきた。



何の前触れも無く、「アニョハセヨ~~~!」とは・・・。

私は言葉が出なかった。

今どきの韓国人は、そんな対応なんだろうか?

コリアンには、恐怖感を覚える、今日この頃である。

新宿区大久保に住む 第七章 [日記]

大久保・百人町とジャニーズ





このタイトルは、このブログには珍しい。

私はこのブログは、私が住んでいる街、
大久保の歴史や文化などを紹介しようとして、立ち上げたのである。

それに、ジャニーズがでていると言うのであるから、
このブログは、本当にどうなってしまったんだろう?

そう思う方がいらっしゃるかも知れない。

それは、ムリも無い話である。



実は、百人町とジャニーズは、密接に結びついているのである。

と言うのは、ジャニーズのホール「東京グローブ座」があるからである。



私は長い間、サラリーマンをしていたし、
その間、朝7時の電車で出社し、帰宅はいつも終電であった。

その為、昼間に町内で起こっていた事など、
つゆ知らず過ごしたものである。



ある日、私は代休をとった。

いや、会社からとらされたのである。

連日連夜、出勤をし、土日祝関係なく出社していたので、
会社が、強制的にとるように、業務命令を下したのである。

有り難いと言えば、ありがたい話だ。



いつも休みが無かった私にとって、
平日、しかも他人様が、汗水垂らして働いているときに、
休むというのは、何となく違和感がある。

うまく表現できないが、なんとも、こそばゆいような思いである。

まあ、違和感と同時に、優越感も感じたのも事実である。



さて、その日私は、新大久保駅から、高田馬場方面へ向かって
商店街を歩いていた。

そのときである。

向こうから、20代~30代とおぼしき、若い女性が、
群れをなして、新大久保駅方面へ歩いてくるのである。

「ん?」

私は何やら、自分がおかしな空間に、迷い込んでしまったような
そんな感覚にさいなまれた。



今思えば、彼女たちは、東京グローブ座の公演を鑑賞し、
帰路につく女性たちだったのである。

しかし、ジャニーズのホールがある事も、気付かないほど働いていた
当時の私は、その若い女性たちの様子を見て、事態を把握できなかった。



友人から聞いた話だが、今をときめく人気グループ「嵐」も
以前は、グローブ座に出演していたのだとか。

その友人は、その当時、新大久保の駅で、
嵐のメンバーを、見かけることもあったと言うから、
若い女性たちが、大勢駆けつけるのもムリは無い。



私は長い間、大久保・百人町は、そんな噂になる様な街では無いと思っていたが、
やはり私の知らない事は、多々あるものである。

色々な文化が融合し、成り立っている街、大久保。

愛すべき街である。
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新宿区大久保に住む 第六章 [日記]

大久保とコリアン




前回までで、駆け足ではあったが、大久保界隈の
江戸時代から、第一次大戦までの歴史を振り返った。

自分が住んでいる街なのに、私自身
如何に知らない事が、多かったことか!

自分の無知に、驚愕せざるを得なかった。



さて、今回から、少し趣向を変えて、
現在の大久保をご紹介したいと思う。

現在は、多くの方が「大久保・百人町」と聞くと
「あぁ、コリアンタウンがあるところね。」と言う認識だと思う。

ところが、我々住民からすると、
何もコリアンだけが、賑わっている訳では無いことも知っている。

確かに、大久保通りから、職安通りまでの区画は、
韓流ショップが建ち並ぶし、韓国語の看板も目立つ。

しかし、その中で、タイ語の看板や、中国語の看板。

クメール語や、ベトナム語、トルコ語などもあるのである。



ただ、大久保で、コリアンが有名になったのは、
ちょうど十年程前に起こった“韓流ブーム”の影響では無いだろうか?

「冬のソナタ」が、一大ブームとなった、2004年。

一気に韓流ショップが、大久保に押し寄せた。

そのピークが、2010年まで続いたように思う。



私の記憶によると、2011年ぐらいから、
徐々に、韓流ブームは、落ち着いてきたように思う。

有名な韓国料理屋さんであれば、
ピーク時には、4ヶ月先まで、予約で一杯というお店もあった。

私も現に、10月に予約しようとしたが、
「予約は、来年の2月以降になります!それまで、一杯です。」と言われたぐらいであった。



しかし、現在(2013年)であれば、日によって待たなければならないが、
大体の店で、予約無しの飛び込みでも、食事をする事ができる。

これは、韓流が日本で、一巡してしまった結果では無いだろうか?



大久保とコリアンは、非常に密接に結びついている。

我々日本人の住民も、これ以降も、
街に住むコリアンと手を取り合って、生きていくことになるのであろう。

お互いに、仲良くやっていきたいものである。

新宿区大久保に住む 第五章 [日記]

第五章 観光大震災~戦後





大正時代に入り、関東大震災が発生した。

大正十二年九月一日の事である。

この震災によって、首都東京市は、多大な被害を被った。

震源地は、神奈川県相模湾北西沖80km。

地震の規模を示すマグニチュードは、7.9Mであった。




ちなみに、2011年3月11日に発生した、日本周辺における観測史上最大の地震である、
東日本大震災では、マグニチュードが9.0Mであった。

つまり、東日本大震災クラスの大きな地震が、当時の東京市をおそったことになる。

被害範囲は、神奈川県を中心に、東京、千葉、茨城、静岡に及び、
日本災害史上最大級の被害と言われている。



東京市は、下町を中心に、多大な被害(震災による崩壊・倒壊、及び火災)を被った。

ただ、新宿は、震災による崩壊・倒壊はあったが、
火災などの影響は少なく、軽度の被害で済んだ地域であった。

その影響で、震災後は、新宿に人が一気に押し寄せることになる。

新宿駅界隈には、キネマ劇場、デパート、当時最先端のカフェなどができ、
人が溢れかえる街となったのである。

これによって、新宿は、住宅地と言う位置づけから、
繁華街へと移っていくことになった。




ちなみに、当時の記録によると、新宿駅の乗降客数は、日に二十万人以上もあった。

日本の中枢である、東京駅よりも、乗降客数は、多かったのである。

現在でも、乗降客第一位という地位は、崩れていないが、
当時の新宿駅では、それだけの乗降客数をこなすのは、至難の業だったであろう。

また、そのハブ駅として機能しているため、
鉄道は、新宿駅を中心に、放射線状に伸びていった。



新宿は、住宅地という事から、一気に歓楽街へ移っていった。

この辺りから、現在の新宿に近づいてくることになる。

歴史というものは、非常に面白いものである。

新宿区大久保に住む 第四章 [日記]

第四章 鉄道の開通





大久保町に、陸軍の施設が建設されたとは言うものの、
大久保という街は、あくまでも住宅地という位置づけは変わらず、
生産拠点とはならなかった。

よって、陸軍兵学寮だけでは、発展する、と言うところまでは、まだまだ行かない。

実際に、当時の大久保は、「潤う」と言うところからは、ほど遠い位置にいた。



今では、信じられないことだが、表通りにすら、空き家が目立ったそうである。

また、一歩路地に入れば、藪があり、
その藪は、昼間でも薄暗いほど、うっそうと茂っていたと言う。

そんな風景が、大久保から今の早稲田辺りまで続いていたと言うから、
当時は、相当な田舎町だったわけだ。



当時の大久保には、経済的に活性化する何かが必要であった。

そこに、出てきたのが、鉄道駅である。

明治十八年。

現在の山手線の前身にあたる品川線(日本鉄道株式会社)が、品川-赤羽間で開通した。

そのときにできたのが、新宿駅である。



そして、その四年後、もう一つの鉄道が開通した。

それが、新宿-立川間を走る、甲武鉄道である。

この甲武鉄道は、新宿駅の発展に、大きく貢献することとなる。



元々、生産拠点では無かった新宿。

当時は、圧倒的に、消費の街だったのである。



この甲武鉄道によって、新宿駅は、
それまでの、単なる通過駅という位置づけで無く、
商品の原料や輸送に関しての拠点として、重要視されるようになる。

つまり、新宿駅は、荷物の集積所や輸送の拠点として、
ハブの役割を果たす事になり、発展に弾みがつくことになった。



また、当時は企業の復興が著しく、新宿は、
社員さんの住宅地が必要になり、宅地化されていったのである。

こう見てみると、今でこそ、大都会となった新宿だが、
山あり谷ありの発展を遂げていることが良く分かる。

人の歴史に、街有り。

街の歴史に、人有り。

本当に面白いものである。
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新宿区大久保に住む 第三章 [日記]

第三章 陸軍兵学寮の設置





明治時代の開国で、新政府の元、新しい土地制度が施行された。

このことで、新宿は、寂れてしまった。



それもそのはず、今の新宿区がある辺りは、もともと神社仏閣、武家地が多かったのである。

言うまでも無いが、それらの経済的効果は、非常に大きい。

それを解体したので、当然のことながら、新宿の産業レベルは、一気に低下したのである。



今も昔も変わらないことは、「産業レベルの低い土地には、人は居着かない」という事実である。

人が集まらないところ。

働き口の無いところ。

分限者のいないところ。

そんなところに、人は居着かないものだ。

当時の大久保は、ちょうどそのような状況であった。



そんな大久保を救ったのは、他でもない。

富国強兵を唱っていた、当時の軍隊である。

軍隊が、この大久保に設置されたのである。

まあ、正確に言うと、大久保の明治通りを挟んで、東側にあたる、現在では、戸山2丁目と言われる辺りである。

現在戸山2丁目というと、都営住宅 戸山ハイツが、立ち並び、大きな住宅地となっているが、まさにそこに、陸軍施設が設置されたのである。



当時、明治新政府は、近代国家としての体制作りに、躍起になっていた。

その一環として、新宿区へ陸軍の設置をしたのだが、これには、理由があった。



それは、利用できる藩邸跡が多数あったからである。

当時、明治新政府には、資金が無かった。

しかし、一刻も早く、近代国家としての、体裁を整えなければならない。

そこで考えられたのが、藩邸跡の再利用であった。



当時、戸山には、尾張徳川家の下屋敷 「戸山山荘跡」があった。

新政府は、まず、そこに目を付け、陸軍施設を設置した。

それが、陸軍兵学寮戸山出張所である。



そこでは、戦術、射撃、体操剣術の三科目が、教えられた。

その為、陸軍兵学寮に通う人たちで、活気が蘇ってきたのである。



地形的に見ても、新宿区は、山の手に位置し、住宅地として発展してきたのである。

その為、武家屋敷の解体後は、国家施設でも入ってこない限り、発展は望めなかったであろう。

そこに、待ってましたとばかりに、設置された陸軍兵学寮。

明治政府は、金をかけずに施設が見つかり、助かったのかも知れない。

しかし、それは、大久保の発展にとっても、幸運なことであった。



さて、この陸軍の設置を機に、大久保は、ますますの発展を遂げていくことになる。

次の章では、この次の時代について、見ていきたいと思う。

どの様な自体になっていくのであろうか?

楽しみである。
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新宿区大久保に住む 第二章 [日記]

第二章 旧土地制度の解体





元号が、明治に遷った1868年。

江戸は、「東京」と名を変えた。

NHKの大河ドラマ「篤姫」の終盤で、この時代の話が出てくる。

篤姫が、少し寂しそうに「元号が明治となり、江戸が東京と変わって、日本はどんどん変わっていきますね。」と言う台詞が、印象的である。

やはり、江戸時代を謳歌していた人たちからすると、寂しさが残るのは、否めない事実であろう。

まあ、徳川宗家の場合は、400万石から、一気に70万石まで、禄高が下がったのであるから、篤姫のあの台詞もムリも無い事である。



そして、帝(天皇陛下)が江戸城へ移られた。

1200年以上、天皇家と共に歩んできた、京都の街から、東京府へお遷りあそばしたのである。

そして、首都が京都から、東京へと変わった。

私は、このことが、その後の日本の発展に、大きく関わっていると思う。



さて、明治に入り、廃藩置県が行われた。

これは、学生時代に、歴史の授業で勉強して知っていると思う。

東京では、東京府庁が設置され、新政府の拠点となった。

この明治新政府の課題の一つが、旧土地制度の解体と、新しい制度の制定であった。

土地は、江戸時代、幕藩制度を支えていた柱である。

その解体となれば、相当な尽力が、必要だった事は間違えない。




さて、そろそろ、話を大久保へ戻そう。

大久保と言う街は、もともと大きく分けると、神社仏閣、武家屋敷、組屋敷などで構成されていた。

新政府は、それらを解体したのである。

武家屋敷は、身分制の廃止などを含め、上納させたし、神社仏閣に関しては、境内以外の土地を取り上げた。

と言う事は、江戸時代に、長年 大久保を発展させてきた、経済基盤の心臓部分を、取り去ってしまったのである。

当然の事ながら、その後大久保は、一時的に寂れてしまうのである。



ここで、寂れたまま終わってしまうと、今の大久保の発展は無い。

ここからの巻き返しが、当然あるわけである。

次回は、この巻き返しとなった事例を見ていきたいと思う。



以上の様に考えると、明治維新という大きな波は、我々の祖先に、想像以上に大きな影響を与えていたことになる。

祖先が頑張ってくれたから、今の私たちがある。

そう思うと、思わず、我々の先祖に、感謝の気持ちがわき上がってくる。

大久保と言う街は、本当に飽きない街である。

新宿区大久保に住む 第一章 [日記]

第一章 鉄砲隊とつつじ



大久保の事は、江戸時代から残っているようである。

これは、本当にラッキーな事である。

と言うのも、当時の庶民は、読み書きはできなかったから、文字で残すのが、難しかったのである。

つまり、その地域で生まれた文化があったとしても、それらを伝承していけなかったのだ。

多くの地域では、それまであった歴史が、過去のものへと、追いやられてしまっているのは、非常に残念でならない。

そんな昔からの資料が、現存していると言う事は、やはり、それだけ多くの人が息づく街であった証拠なのだろう。



さて、それでは、江戸時代の大久保の、街の様子から始めることにしよう。



江戸時代は、大久保、そして隣の百人町は、徳川幕府の下級武士が、住んでいた地域だったらしい。

そして、百人町には、百人組という鉄砲隊が、組屋敷に住んでいたのである。

この百人町の名前の由来も、この百人組に由来するのである。

百人組とは、徳川家直参の旗本も含まれている、由緒ある鉄砲隊なのである。



少し余談であるが、JR総武線の大久保駅北口をでると、当時の鉄砲隊の壁画がある。

まあ、わざわざ、遠方から見に来るほどの絵では無いが、ご興味のある方は、是非、ご覧いただきたい。

当時の様子が、少しは理解できるのでは無いだろうか?



さて、大久保、百人町と言えば、かつては、つつじも有名であった。

花の「つつじ」である。

江戸時代は、百人町の住民が、内職でつつじ栽培をしていたそうである。

大地が、つつじ栽培にあっていたと見え、当時は、百人町は、つつじの名所ともなっていた。

つつじの季節になると、江戸の下町からも、人々が見物に訪れ、非常に活気にあふれる街であった。



そういえば、大久保、百人町には、“つつじ”を名前に持つ、建物名も残っている。

当時の名残を残す、部分である。

その辺りの歴史は、我々住民も、大切にしておきたいと思う。



ちなみに、今は大久保、百人町には、つつじは一つも無い。

まあ、一つも無いというのは、言い過ぎだ。

しかし、かつての「つつじの名所」からは、ほど遠い状態であるのは、間違えない。



では、その美しかったつつじは、一体何処へ消えてしまったんだろう?

そんな風に思うのは、私だけだろうか?

ご安心頂きたい。

明治以降、日比谷公園完成後、百人町で栽培されていたつつじは、ほとんどが、日比谷公園へ移植されたのである。



現在の日比谷公園に、当時移植されたつつじ(または、その子孫)が、残っているかは、定かでは無い。

しかしながら、こう言う歴史を踏まえれば、昨日まで何とも思わなかった、日比谷公園のつつじも、何となく、親しみを感じるようになってしまう。

人間とは、不思議な生き物である。



さて、つつじの移植以降、大久保という街は、大きく様変わりすることになる。

次回は、その辺りをひもといてみたいと思う。

我が町を知るというのは、実に楽しいものである。
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